頭数合わせで皇帝主催の慰霊式に出席していたユノーは、式典が終わるなり聖堂から走るように退出した。
式に出席していた神官の中に、神官籍を持っているというあの人がいるのではないか。ならば、せめて無事帰還できた礼を伝えなければ。
そう思ってみたものの、聖堂の中では数え切れないほどの参加者に囲まれ、身動きが取れなかった。
加えて神官たちははるか前方の祭壇の周りにいたため、顔までははっきりわからない。
そこでユノーは出口付近で三々五々退出してくる神官たちからあの人を見つけようと思ったのだが、皆等しくフードを目深に被っているので、覗き込むわけにも行かない。
あきらめかけたその時、ユノーはあるものを感じた。
他でもない、じめじめとしたかび臭い空気……最終決戦の直前、司令官を起こしに行ったときに感じたあの空気だった。
吸い寄せられるようにユノーはその方向に歩を進める。
そして気が付くと、兵舎地区の一角に足を踏み入れていた。
個性のない家が建ち並ぶ、その片隅の一軒からそれは流れ出していた。
通りすがりの住人──恐らく衛兵の家族だろう──に、そこに誰が住んでいるのか、と彼は尋ねる。
すると、殆ど見かけたことはないが、という前置きの後で、あれは『無紋の勇者』の家だという答えが返ってきた。
嫌な予感がする。
いや、予感と言うにはその感覚は余りにも強すぎた。
閉ざされた扉の向こうからは、尋常ではない邪気を孕んだ空気が溢れてくる。
扉を叩くのももどかしく、ユノーは思い切って扉を開く。
かすかな邪気よけの香の残り香があるのだが、それはかび臭さに浸食されている。
その臭気に思わず口と鼻を抑え入口で立ち止まるユノーの視界に入ってきたのは、苦しげに床にうずくまるシーリアスの姿だった。
「し、司令官殿! 閣下! いかがされましたか?」
叫びながら近づくユノーに、苦しげな息の中、だがはっきりとシーリアスは告げた。
周囲は完全な暗闇に包まれていた。 申し訳程度に敷かれたぼろ布の上に横たえられているのは、先ほどまで鞭打たれていたあの少年である。 冷たい石に囲まれた狭い空間で、ぴくりとも動かない。 その場所を満たしているのは、もう何年も動いた形跡がない重苦しくじめじめとした空気と、少年の身体に刻まれた傷口から流れ落ちる血の匂いだった。 地下牢、という言葉が刹那ユノーの脳裏によぎった。 そして少年に向かい手を伸ばした瞬間、ユノーの思念は少年と同化していた。 何時ここに連れて来られたのかもわからない。いや、なぜこんなことになったのかもわからない。 ただ、全身の傷が脈打つように疼(うず)く。 傷は腫れ上がり熱を持ち、地下牢内の寒さを感じないほどだった。 時折天井から水滴がむき出しの背にしたたり落ちるたび、その痛みは激しくなる。 そして痛みに耐えかねて体を動かそうとすると、更なる激痛が襲いかかってくる。 叫び声を上げる力も失せ、ただ目を閉じ涙を流していたその時、闇の中に変化が起きた。 鉄格子のはまった扉の隙間から、明かりが漏れてくる。 同時に何者かが格子越しに中を確認しているらしい視線を感じた。 しばらくしてがちゃり、という重々しい音がした。 抵抗するかのような嫌な音を立てて扉が開き、ランプを手にした穏やかな風貌の武人が踏み込んできた。 その武人はゆっくりと近づき、用心深く身をかがめ、手をこちらに向けて差し伸べてくる。 逃げなければ。 何故そのように感じたのかすら解らない。 ただ咄嗟(とっさ)にそう思い、顔面近くにあった彼の指先に噛みついた。「大丈夫だ。私は助けに来たんだ……」 言いながら、武人は両の手をこちらに差し伸べる。 抱きかかえられそうになるところを無茶苦茶に暴れ、差し出された武人の手の甲を、近づいてくる頬を引っ掻く。 けれど、はめられた枷と繋がれた鎖が、この僅かな抵抗を試みるたびに確実に体力を奪っていく。 意味を成さない叫び声をあげながら、残された僅かな力で、這うように武人の手中から逃れようとする。 けれどその指先は、すぐに剥き出しの石壁にぶつかった。 そう、ここは『閉ざされた』空間なのだ。 何をされようとも、ここから逃れられないのは解っている。 何時しか額には武人の手がか
「汝に平安あれ」 先程見た光景と全く同じその言葉に、ユノーは思わず振り返った。 その視界に入ってきたのは、心ここにあらずと言うような表情を浮かべて起きあがろうとする上官の姿だった。「……師匠。……どうして……こちらに?」「どうしても何も、突然姿を消したのは、お前の方だろう。おかげで殿下はたいそうご立腹だ。しかもいらぬ手間を部下にかけさせるとは……」 珍しく戸惑った様な藍色の瞳を向けられて、けれどユノーは立ちすくみ、ややあって思わず数歩後ずさった。 そして、震える声でなんとか取り繕うとする。「も……申し訳ありません……。勝手に……お邪魔して……。あの……」 けれど、経験値ではユノーは司令官と比べると完全に劣る。 鋭い視線を投げかけられて、彼は完全に口ごもってしまった。「……ロンダート卿、何を見た?」 開戦の直前に投げかけられたのと、全く同じ質問である。 けれど、今度はユノーは返すべき言葉を持たなかった。 その様子に全てを理解したのだろう、シーリアスはわずかに吐息を漏らし、苦笑になりきらない表情を浮かべて見せた。「わかった。酒場の笑い話のきっかけぐらいにはなるだろう。……全部本当の事だから、気にするな」 その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、ユノーの涙が埃の積もった床に落ちた。「…&hellip
突然降りだした激しい雨に、ボクはあわてて商店の軒先に駆け込んだ。 ふるふると身震いして水を払い落とすと、ボクは丁寧に毛繕いを始めた。 いつからこの街にいたのかなんて、覚えていない。 物心ついた頃には、ネズミや鳥を狩ったり、ゴミ箱をあさったりして毎日を食いつないできた。 時には魚屋の商品に手を出して、店の主人にどやされることもあるけれど、街の人々は比較的ボクらには友好的だった。 そう、ボクは野良猫。 帰る場所のない根なし草。 さて、今日は一体どこで雨露をしのごうか。 相変わらず降り続ける雨を眺めながら、ボクは思案し首をかしげる。 ちょうどその時だった。 前触れもなく、ボクが居座る軒先に、一人の少年が駆け込んできた。 どのくらい走ってきたのだろうか、頭の先から爪先までびっしょりと濡れた少年は、まるでボクらのようにぶるぶると頭をふる。 同時にせっかく乾きかけたボクの体に、飛沫が飛んできた。 いい迷惑だ。 そう伝えるため、ボクは一声鳴いた。 それでようやく少年は、ボクの存在に気が付いたらしい。 そしてボクも、その時初めて彼の顔を真正面から見ることができた。 歳の頃は十二、三くらいだろうか、どちらかと言えば小柄な少年は、その夜空の色をした瞳でまじまじとボクを見つめてくる。 何か、文句でもある? ボクは再び鳴いた。 瞬間、何の前触れも無く、少年はしゃがみこみ、ボクと視線を合わせてきた。 彼の濡れたセピア色の髪から、水滴がボクにこぼれ落ちてくる。 だから、迷惑なんだってば。 その場から離れようとした時、ボクの耳に、彼の声が飛び込んできた。「……君も、一人なの?」 その声に、ボクは立ち上がるのをやめた。 そして、改めて彼を見やる。 質素ではあるが清潔な服を着ているので、『宿無し子』ではないだろう。 腰には何故か、年齢にはそぐわない短剣を差している。 けれど、それ以上に違和感を感じたのは、彼の『声』だった。 抑揚がなく、一本調子の……そう、感情が無い声。 首をかしげるボクに、彼は手を伸ばしてきた。 濡れて冷えきった手が、ボクの頭を撫でる。「俺も、一人なんだ」 濡れた手が、頭から背に伸びる。優しく、ゆっくりと。 悪意は無いのは解っているのだけれど、これ以上濡れてしまってはたまったもんじゃない。 一つ抗議の声を
室内に入ると同時に、ボクらは子ども達に取り囲まれた。 ボクと同様ずぶ濡れになった少年は、無言でボクを子ども達に押し付けると、少し機嫌悪そうにどこかへと歩み去っていく。 どういうつもりなんだよ。 ボクは抗議の声を上げる。 それが届かなかったのか、聞こえないふりをしているのか、彼は振り返ることは無い。 子どもに取り囲まれたら、後は予想通り。 広間に連れてこられたボクは、子ども達に撫でられまくった。 その間、ボクは自分を取り囲む人間達を観察する。 さっきの女の子は、彼を『お兄ちゃん』と呼んでいたけれど、全然似ていない。 歳も、見かけもバラバラな子ども達。 一体ここは、何なのだろうか。『家族』という訳ではなさそうだ。 そうこうするうちに、先ほどの『導師さま』がやってきた。少し困ったような笑みを浮かべて。「さあさあ、食事の時間よ。手をよく洗って、食堂へいきなさい」 優しい声に、子ども達は口々に返事をしながらボクの前から去っていく。 少し暗い室内に取り残されたボクは、小さく伸びをすると、ボサボサになってしまった体を丁寧に舐め始めた。 未だ腑に落ちないボクの目の前で、扉は音もなく開いた。 とっさに毛繕いをやめ、顔を上げる。 そこに立っていたのは、あの少年だった。 けれど、街で会った時とは違って生成りのくるぶし丈の服を着ている。 首をかしげるボクの前に彼は座ると、何やら手に持っていた包みを床の上に広げた。「こんな物だけど、食えるか?」 どうやら彼は、自分の食事を残して持ってきたらしい。 ボクにとっては、これ以上ないごちそうだった。 おとなしく食べ始めたボクを見ながら、彼はわずかに笑った。「ここは、『孤児院
突然のすごい音に、ボクは跳び跳ねた。 そして、ぼさっと柔らかい寝台に落ちる。 鐘の音がこんなに大きく聞こえるなんて……そうか、ここはいつもの街じゃなかったんだっけ。 気が付いて、ボクは周囲を見回した。 その耳に、彼の声が飛び込んできた。「目が覚めたのか?」 見ると、テーブルの脇に座り頬杖をついている彼がいた。 『似合わない』と自分でも言っていた神官の服を着て。 そして、テーブルの上には、何だか良く解らない分厚い本が開いた状態で置いてあった。 寝ていたとはいえ、彼が起きたのに気がつかなかったなんて。 こいつ、一体何なんだ? 驚くボクに、彼は微笑を浮かべながら床を指差した。 そこには昨日同様、彼が残してきたとおぼしき食事が置いてある。 すとん、と寝台から降り立ち、ボクはそれを食べ始める。 彼はしばらくそんなボクを見ていたが、やがてあの分厚い本を読み始めた。 すっかり食べ終わってボクが毛繕いを始めると、彼は静かに立ち上がる。 食べ物が置かれていた布を拾い上げ、丁寧に折り畳むとそれを懐へしまいこんだ。 でも、いつも残してくるなら、君の分が足りなくなるんじゃないの? 鳴きながら見上げるボクの頭を、彼はくしゃくしゃとかき回した。 せっかくきれいにしたのに、台無しじゃないか。 抗議の声を上げるボクに、彼は笑った。「本当によく食べるな」 大きなお世話だよ。 再び鳴くボクに背を向けて、彼はテーブルに戻ると、分厚い本を読み始める。 一体何を読んでいるのかな。 興味を覚えて、ボクは使われていない椅子の上にに飛び乗り、そこからテーブルの上に飛び移る。「これは、『祈りの書』。一応、修行しないといけないから」 ボクの視線に気が付いた彼は、本から目を離すことなく言った。 恐る恐る、ボクも眺めてみる。 見開きのページにはびっしりと蛇かミミズがのったくったような模様が印刷されている。 いや、模様じゃなくて文字かな? どちらにしても、ボクには意味が解らないから同じことだ。 テーブルの上で伸びをして、そのまま丸くなる。 静かな室内には、彼がページをめくる音だけが響く。 どのくらい時間が経っただろうか。 あまりの静かさに、ボクが眠ってしまいそうになった頃、不意に扉を叩く音がした。 何事か? あわててボクは顔を上げて、そちらを見やる
数日後、ボクらは孤児院を出た。 子どもたちは口々にまた来てね、と言いながら、いつものごとくボクをもみくちゃにする。 少々乱暴な送別会が終わると、ボクは彼の後を追った。 引っ越し、なんていっても荷物なんてたいしたことはなかった。 僅かな着替えと、古ぼけた剣が一本。 それをまとめて背負った彼は、迷うことなく歩みを進める。 いつも練兵場へ行くのとは正反対の方へ向かっているのは、ボクにも解った。 この方向に、何があるんだろう。 そんなボクの疑問に答えるかのように、周囲の空気はがらりと一変した。 道ばたを走り回る子ども達。 窓から翻る洗濯物。 まるで街みたいだ。「ここは、『兵舎地区』。近衛兵みたいな、陛下の御身辺を常にお守りする兵と、その家族が住む所」 言いながら、彼は最も奥まった所にある家に歩み寄り、扉に鍵を差し入れた。 かちゃり、という音の後、扉はぎしぎしと開いた。 さっそく駆け込んだボクは、屋内に入るなり、盛大にくしゃみをした。 床には一面、ホコリが積もっていたのだから。「どうやら、ずいぶん長いこと、使われてなかったみたいだな」 言いながら、彼は荷物を寝台の上に放り投げた。 すると盛大にホコリが舞った。「今からでも、戻っていいんだぞ。いや、帰った方が良いかもしれない」 大きなお世話だよ。 ボクはぽん、と跳ね上がって寝台の上に着地する。 そして、その上に放置された物を見つめた。 ふとその視界に、鈍く光る剣が入ってきた。 それは、いつも殿下との稽古で使っていたそれじゃない。「これは、
立ち尽くす殿下。 表情を崩さない彼。 その間でうろうろするボク。「どうした? 本当の事を言っただけじゃないか」 言いながら、彼は笑った。 視線同様、おぼつかない足取りで、彼はこちらに歩み寄る。 言葉を失う殿下とボクの前を素通りして、彼は扉に手をかけた。「お前……酔っているのか?」 殿下の言葉に、ボクはあらためて彼を見つめる。 確かにその右手には、中身が半分程になった緑色の瓶が握られていた。 それをテーブルの上に置くと、彼は崩れるように寝台に座り込んだ。 あわててボクも、その隣に飛び乗る。「すまなかったと思っている。けれど……」 言いさした殿下の言葉が途切れたのは、彼が身に着けていたマントを殿下へ向けて放り投げたからだ。「……持って行け。深窓のお姫様がずぶ濡れになる訳にもいかないだろ? ……多少血の匂いが染み付いているかもしれないけど、我慢しろ」「そうじゃなくて、私は……」「いいから、早く行け! ……これしか生きる道が無い事は、俺自身が一番知ってる。だから……」 あなたが気にする事は、何もない。 囁くような小さい声で、彼は言った。 彼の隣にいたボクの耳に辛うじて入る大きさだったので、それが殿下に届いていたかは、定かでは無い。 マントとボクら。 しばらく交互に見つめていた殿下は、また来る、とだけ言い残して家を出て行った。&
冬はあっという間に訪れた。 暖炉には赤々と炎がたかれ、ほの暗い室内を柔らかく照らし出す。 その暖かい光の中で、彼は相変わらず本を写すという作業を続けていた。 その作業に一体どんな意味があるのか、ボクにはまったく解らない。 一心不乱に作業を続ける彼を、丸まりながら見つめる日々が過ぎていった。 そんなある夜、彼はいつもよりかなり早くその作業を切り上げると、頬杖をつきながらボクに言った。「今日は『年越しの祭』だ。孤児院……猊下からお誘いを受けているんだけど、来るか? あまり気は進まないけれど……」 それって、逆にすっぽかす方がまずいんじゃないの? 寝台から飛び下りると、ボクは彼の足元で鳴いた。 諦めた、とでも言うように小さく吐息をつくと、彼は静かに立ち上がると、大きく伸びをした。 防寒用のマントを神官の長衣の上から着込むと、彼はボクを促して外にでた。 はりつめたような冬の外気に身震いするボクを、彼は問答無用で抱き上げた。「降って来たら雪だろうな」 呟く彼の胸元で、ボクは注意深く周囲を見回した。 どこの部屋にも明るい光が灯っている。 みんな、静かにお祝いしているんだろうな。 そんなことを考えるボクの頭上を、彼の声が通過していった。 最後に家族で過ごしたのは、いつだったかな、と。 そのうち、家族で過ごした時間よりも一人の時の方が長くなる。 そう言う彼の表情は、夜目がきくボクにもはっきりとは見えなかった。 やがて、目の前には石造りの建物が現れた。 無言で彼が扉を叩くと、音もなく開かれ
「汝に平安あれ」 先程見た光景と全く同じその言葉に、ユノーは思わず振り返った。 その視界に入ってきたのは、心ここにあらずと言うような表情を浮かべて起きあがろうとする上官の姿だった。「……師匠。……どうして……こちらに?」「どうしても何も、突然姿を消したのは、お前の方だろう。おかげで殿下はたいそうご立腹だ。しかもいらぬ手間を部下にかけさせるとは……」 珍しく戸惑った様な藍色の瞳を向けられて、けれどユノーは立ちすくみ、ややあって思わず数歩後ずさった。 そして、震える声でなんとか取り繕うとする。「も……申し訳ありません……。勝手に……お邪魔して……。あの……」 けれど、経験値ではユノーは司令官と比べると完全に劣る。 鋭い視線を投げかけられて、彼は完全に口ごもってしまった。「……ロンダート卿、何を見た?」 開戦の直前に投げかけられたのと、全く同じ質問である。 けれど、今度はユノーは返すべき言葉を持たなかった。 その様子に全てを理解したのだろう、シーリアスはわずかに吐息を漏らし、苦笑になりきらない表情を浮かべて見せた。「わかった。酒場の笑い話のきっかけぐらいにはなるだろう。……全部本当の事だから、気にするな」 その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、ユノーの涙が埃の積もった床に落ちた。「…&hellip
周囲は完全な暗闇に包まれていた。 申し訳程度に敷かれたぼろ布の上に横たえられているのは、先ほどまで鞭打たれていたあの少年である。 冷たい石に囲まれた狭い空間で、ぴくりとも動かない。 その場所を満たしているのは、もう何年も動いた形跡がない重苦しくじめじめとした空気と、少年の身体に刻まれた傷口から流れ落ちる血の匂いだった。 地下牢、という言葉が刹那ユノーの脳裏によぎった。 そして少年に向かい手を伸ばした瞬間、ユノーの思念は少年と同化していた。 何時ここに連れて来られたのかもわからない。いや、なぜこんなことになったのかもわからない。 ただ、全身の傷が脈打つように疼(うず)く。 傷は腫れ上がり熱を持ち、地下牢内の寒さを感じないほどだった。 時折天井から水滴がむき出しの背にしたたり落ちるたび、その痛みは激しくなる。 そして痛みに耐えかねて体を動かそうとすると、更なる激痛が襲いかかってくる。 叫び声を上げる力も失せ、ただ目を閉じ涙を流していたその時、闇の中に変化が起きた。 鉄格子のはまった扉の隙間から、明かりが漏れてくる。 同時に何者かが格子越しに中を確認しているらしい視線を感じた。 しばらくしてがちゃり、という重々しい音がした。 抵抗するかのような嫌な音を立てて扉が開き、ランプを手にした穏やかな風貌の武人が踏み込んできた。 その武人はゆっくりと近づき、用心深く身をかがめ、手をこちらに向けて差し伸べてくる。 逃げなければ。 何故そのように感じたのかすら解らない。 ただ咄嗟(とっさ)にそう思い、顔面近くにあった彼の指先に噛みついた。「大丈夫だ。私は助けに来たんだ……」 言いながら、武人は両の手をこちらに差し伸べる。 抱きかかえられそうになるところを無茶苦茶に暴れ、差し出された武人の手の甲を、近づいてくる頬を引っ掻く。 けれど、はめられた枷と繋がれた鎖が、この僅かな抵抗を試みるたびに確実に体力を奪っていく。 意味を成さない叫び声をあげながら、残された僅かな力で、這うように武人の手中から逃れようとする。 けれどその指先は、すぐに剥き出しの石壁にぶつかった。 そう、ここは『閉ざされた』空間なのだ。 何をされようとも、ここから逃れられないのは解っている。 何時しか額には武人の手がか
頭数合わせで皇帝主催の慰霊式に出席していたユノーは、式典が終わるなり聖堂から走るように退出した。 式に出席していた神官の中に、神官籍を持っているというあの人がいるのではないか。ならば、せめて無事帰還できた礼を伝えなければ。 そう思ってみたものの、聖堂の中では数え切れないほどの参加者に囲まれ、身動きが取れなかった。 加えて神官たちははるか前方の祭壇の周りにいたため、顔までははっきりわからない。 そこでユノーは出口付近で三々五々退出してくる神官たちからあの人を見つけようと思ったのだが、皆等しくフードを目深に被っているので、覗き込むわけにも行かない。 あきらめかけたその時、ユノーはあるものを感じた。 他でもない、じめじめとしたかび臭い空気……最終決戦の直前、司令官を起こしに行ったときに感じたあの空気だった。 吸い寄せられるようにユノーはその方向に歩を進める。 そして気が付くと、兵舎地区の一角に足を踏み入れていた。 個性のない家が建ち並ぶ、その片隅の一軒からそれは流れ出していた。 通りすがりの住人──恐らく衛兵の家族だろう──に、そこに誰が住んでいるのか、と彼は尋ねる。 すると、殆ど見かけたことはないが、という前置きの後で、あれは『無紋の勇者』の家だという答えが返ってきた。 嫌な予感がする。 いや、予感と言うにはその感覚は余りにも強すぎた。 閉ざされた扉の向こうからは、尋常ではない邪気を孕んだ空気が溢れてくる。 扉を叩くのももどかしく、ユノーは思い切って扉を開く。 かすかな邪気よけの香の残り香があるのだが、それはかび臭さに浸食されている。 その臭気に思わず口と鼻を抑え入口で立ち止まるユノーの視界に入ってきたのは、苦しげに床にうずくまるシーリアスの姿だった。「し、司令官殿! 閣下! いかがされましたか?」 叫びながら近づくユノーに、苦しげな息の中、だがはっきりとシーリアスは告げた。
皇帝の妹姫ミレダは、宮廷内に併設されている兵舎地区へと向かっていた。 ルドラで勝ち戦を納めた蒼の隊が皇都に帰還してから、行政府は戦死者に対する恩給や負傷者に対する補償金などの事務で手一杯の状況だった。 それらの決裁権を有するミレダは、あることを決定するため無理矢理時間を作ってここに来た。 今現在、行政府で問題になっている事案に対する、ある人物の『意見』を聞くために。 その人物が住む質素な家の前で彼女は立ち止まり、古びた扉を叩く。 それは来訪を告げるためではなくて、気まぐれな家主が在宅しているか不在かを確認するための行動だった。「開いてる。勝手に入ってくれ」 素っ気ない声が内側から返ってくる。どうやら家主は在宅のようだった。 礼儀の欠片すら感じられないその声に、だが気分を害するでもなくミレダは扉に手をかける。 扉が開くと同時に彼女の鼻を突いたのは、むせ返るような香木の焚かれる匂いだった。 邪気を遠ざけると言われるこの香は、神殿や聖堂ではそれこそ途切れることなく焚かれている物である。 そして戦士と神官という異なる二つの顔を持つこの家の主が戦場から戻るたび、まるで身体に染みついた血の匂いをうち消すかのように絶やすことがないことも、彼女は知っている。 そして戦で勝利を重ねるたび、一度に焚かれる香木の量が目に見えて増えていることに、彼女は一抹の不安を感じていた。「いい加減、この匂いは強すぎるんじゃないか? 何もここまでしなくても……」 言いながらミレダは後ろ手で扉を閉め、家の主に声をかける。 埃が積もった机の上には、司祭館の書庫から借りてきたと思しき分厚い教典が鎮座していた。 家主は来客に目もくれず、黙々と作業を続けながら先程同様の素っ気ない口調で答える。「……今回は色々面倒なことがあって少しばかり厳しかった
予想外の出来事が重なったものの、今回も『蒼の隊』はその不敗神話を裏切ることはなかった。 けれど、戻ってくる全軍を迎える後衛のシグマは、帰還してくる隊列の中に友人の姿を見つけることが出来ずにいた。 不安げに表情を曇らせ何か言いたげに見やってくるシグマに、司令官は眉一つ動かさずに告げる。 参謀長閣下とイータ・カイ卿は、名誉の戦死を遂げた、と。 本当なのか、とシグマは青ざめた顔をして下馬するユノーに胸ぐらを掴まんとする勢いで詰め寄る。けれど、ユノーは返す言葉がなかった。 カイ本人の名誉を守るため、そして友人を思うシグマのためにも、真実は語るべきではない、そう判断したからだ。 その後、わかっている限りの戦死者の名が告げられていく。 シグマ以外にも、それまで幾度となく戦場を共にしてきた戦友を失った者達の嗚咽が、あちらこちらから聞こえてくる。 中には膝を付き拳を大地に打ち付けながら号泣する者もいる。 それらの姿を目にしたユノーは、自分が生き残った……生き残ってしまったということをようやく思い知らされたのだった。 ※ そして、何事もなかったかのように夜が訪れた。 心配された新たな敵から追撃が行われる気配もない。どうやら先方もこれ以上の戦闘は無益と判断したのだろう。 おかげで、蒼の隊は久しぶりに静かな時を迎えることができた。 陣のあちらこちらで生き残った者達が、ささやかな祝杯をあげている。 やがて闇が深くなっていくにつれさすがに彼らも眠りにつき、次第に周囲は完全な静寂に包まれる。 その耳が痛くなるような音のない世界で、心身ともに疲れ切っているにもかかわらず、ユノーはどうしても寝付くことができずにいた。 目を閉じると、戦場で見た惨状がまぶたの裏に浮かび上がってくるのである。 敵味方の無数の躯(むくろ)がゆらゆらと起き上がり、恨みをはらんだ目で睨みつけながら、こちらへ来いとでも言わんばかりに手招いているような気がしてならない。 そんな彼の耳に、歌うような不思議な声が聞こえてきた。
『エドナの死神』と恐れられるロンドベルト・トーループが配下の部隊を率いルドラに到達した時、戦は既に終結しようとしていた。 どう見ても敵軍勝利という、予想通りの状態で。「いかがなさいますか? 追撃を仕掛けてはどうでしょう」 背後から参謀に声をかけられて、しかしロンドベルトは目を伏せ首を左右に振った。「今さら追いかけても、時間の無駄だ。ただでさえこちらの補給線は限界まで伸びている」 深追いしても袋叩きに合うだけだろう。 そうつぶやくと、ロンドベルトは不服そうな参謀を無視して、右手に控える女性に声をかける。「副官、全軍に伝達。負傷者をできる限り収容した後速やかに撤退する」 かしこまりました、と彼女が馬首を返そうとした時だった。 傷だらけの伝令が一人、彼らの前に文字通り転がり込んてきた。「イング隊のロンドベルト・トーループ将軍とお見受けいたします。我が隊の司令官がお会いしたいと申しております」 突然のことに、副官と参謀は等しく司令官をみつめる。 一方ロンドベルトはその漆黒の瞳をわずかに細め、低い声で伝令に問うた。「失礼ながらお尋ねする。シグル隊の司令官……バウワー殿はご存命なのか?」 すると、伝令はその言葉に打たれたように深々と頭を垂れる。「は、はい。恐れながら本陣にお運びいただきたいと……」 そうか、とつぶやくと、ロンドベルトは吐息を漏らす。 そして今度は左手後方に控える参
どす黒い思念が、ユノーを取り巻く空間に先程より強く流れ込んでくる。 次の瞬間、彼の視界の端で何かが動いた。 何事かと向き直った瞬間、参謀長を取り巻く一角となっていたカイが手にした剣を閃かせ虜となっているその人を切り伏せた。 と同時に、その勢いを保ったままシーリアスに向かい突っ込んでいく。 異変に気付いたシーリアスが振り向いた時には、カイは絶叫をあげ大上段から剣を振り下ろそうとしていた。 間に合わない。 その場にいた誰もが、等しく目を覆う。 が、信じられないことが起きていた。 鈍い音と共にカイの剣の先端部は何かにぶつかったかの様に折れて弾け飛び、草むらの上に突き刺さった。 強固なまでのユノーの防御が、皮肉にもその術を教えた人からの攻撃を防いだのだ。「何で……何で貴方が、こんなことを……」 まだ信じられない、と泣きそうになりながら問うユノーに、カイは剣を引き寂しげに笑った。「やっぱり防御止まりにしておいて正解でしたね、司令官殿。こんなに不安定な精神状態じゃ、何が起こるか解らない」 最後まで貴方にはかないませんでした、とカイは自嘲気味に笑う。 そして、ユノーの方を見、彼は寂しげに言った。「……そのうち、君にも解るときが来るよ。うだつの上がらない下級貴族の惨めさがね」 言い終えると同時に、カイは先端が折れた白刃を自らの首筋にあてる。「……君は、自分のようにはなるなよ」 そして次の瞬間、カイは剣を一息に引いた。 止める間すらなかった。 その傷口から噴水のように鮮血があふれる。 即死であろう事は間違いなかった。 自らが作り上げた深紅の沼の中に、事切れたカイは馬の背から落下する。 その顔には何故か満足げな微笑が浮かんでいた。 その様子を、凍り付いたようにユノーは見つめていることしか出来なかった。 手を差し伸べることも、泣き叫ぶことも出来ぬままに。「……安心しろ。お前の責任じゃない。奴が勝手に選んだ道だ」 背後から、いつも以上に突き放すようなシーリアスの声がする。 それが恐らく自分の心情を思っての精一杯の慰めであることを、ユノーは理解していた。 いや、理解しようとしていた。 だが、結果的に自分がカイを殺してしまったのではないかという考えがよぎる。 けれど、もしあの時、自分が飛
ついにここまで来てしまった。 もう逃げられない。 ユノーが覚悟を決めたときだった。 日の光に、シーリアスの宝剣が閃く。 射すくめられたようにユノーは固唾を呑んだ。「総員、抜刀! 突撃開始!」 その声と同時に、蒼の隊精鋭部隊は急斜面を駆け下り、修羅場と化した戦場に飛び込んでいく。「ぼさっとするな!」 いつも以上に鋭いシーリアスの声に、ユノーは慌てて敵の攻撃をなぎ払う。 一方で、シーリアスが手にしている宝剣から一陣の風が起こるたび、敵はばたばたと落馬していく。──暴走させれば敵も味方も仲良くあの世行きだ……── 司令官が常々口にしていた言葉の真意を、ユノーは身をもって知った。 確かにこれは、付け焼き刃の短時間講習で習得し実践するのは無理だ。 一つの攻撃を受け流してほっとするの持つかの間、次の敵騎兵が躍りかかってくる。「貴官はついてきて、敵の攻撃に対抗する『壁』を作るのに専念しろ」 混乱の中であるにもかかわらず、シーリアスの声は確実にユノーに届いた。 慌てて顔を上げたその視界の先で、一人の敵騎兵が胸から血を吹き上げて落馬する。 乱戦は続いた。 青々と茂っていた草原は、いつしか流れる血によってところどころどす黒く染まっている。 あちらこちらで剣と剣がぶつかる火花が散り、放たれた矢が空を行き交う。 斬られた者は自ら作り出した赤い沼に沈み、矢にあたった者はその傍らに落ちる。 敵味方の入り乱れるその戦場で、シーリアスは常に陣中にあり、返り血で全身を深紅に染めていた。 ユノーにとって意外だったのは、色を失った参謀長だった。 真っ先に切り伏せられると思っていたその人は、巧みにシーリアスとユノーの間に割ってはいることにより、自らは何もすることなくどうにかこの戦場を泳いでいる。 だが、この乱戦の中、その人を気にとめる者は誰一人いなかった。 誰もが生きるために、敵を屠(ほふ)っていたからである。 いつし
居並ぶ将兵の前に姿を現した『無紋の勇者』は、おもむろに口を開いた。「最衛隊として、五百を本人に残す。負傷者は可能な限り収容しここに運べ。指揮はシグマに任せる」 この状況では妥当なその言葉に、立場の異なる二人の顔に図らずも全く同じ失望の表情が浮かぶ。「大将、それはないよ! せっかくここまで来たのに、ひと暴れもできないなんて」「後衛の守りは、是非私に…」 ほぼ同時に口を開くシグマと参謀長。 が、それを予想していたのか司令官は表情を動かすことなく答える。「ここは我々の最後の砦だ。我々に万一の事が起きた場合は、それなりの経験がある者に退却の指揮を執って貰いたいからこそシグマに任せる。参謀長たるあなたには、戦場で若輩な俺を補佐して欲しい」 その人にはしては、珍しく正論である。 確かに常勝と呼ばれている蒼の隊ではあるが、それが今回もそうであるとは限らない。 蒼白になる参謀長の隣でむくれているシグマの肩を、カイがなだめるように叩いた。「まあ、その分自分が叩きのめしてくるからさ。少しは我慢しろよ」 長年の戦友にたしなめられてもなお、シグマは納得がいかないとでも言うように頬を膨らませて腕を組む。 その時、最前線からの伝令が駆け込んできた。「第二部隊、突入しました! 現在混戦状態となっております!」 無言で頷くと、『無紋の勇者』と呼ばれているその人は高らかに命じた。「総員騎乗! 友軍と合流する!」 ガシャガシャと金属がぶつかり合う音が響く。 それに遅れまいとしてユノーは慌てて鐙(あぶみ)に足をかけ、鞍の上に自らを引き上げる。 既に馬上の人となっていた司令官は宝剣を頭上にかざす。「”見えざるもの”の加護よ、我らが剣に宿り賜え!」 威風堂々としたその姿と声に、力強い鬨(とき)の声がそれに応じる。 最高潮に達しようとしていた戦意に、ユノーははからずも身震いする。 シーリアスは、邪気を切り払うかのように掲げた宝剣を水平